工藤公康の現役時代の経歴は?FA移籍でファンに手紙?家族も気になる!

工藤公康
工藤監督は現在、福岡ソフトバンクホークスの監督を務めています。
選手時代は、西武、ダイエー、巨人、横浜に所属し、11度の日本一を経験したことから「優勝請負人」と呼ばれる存在でした。今回は、工藤監督の経歴や家族について紹介します!

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プロフィール

工藤公康
名前   :工藤 公康(くどう きみやす)
生年月日 :1963年5月5日
出身地  :愛知県豊明市
身長   :176 cm
血液型  :O型
投球・打席:左投左打
ポジション:投手

選手歴

名古屋電気高等学校
西武ライオンズ (1982 – 1994)
福岡ダイエーホークス (1995 – 1999)
読売ジャイアンツ (2000 – 2006)
横浜ベイスターズ (2007 – 2009)
埼玉西武ライオンズ (2010)

監督歴

福岡ソフトバンクホークス (2015 – )

経歴

1981年ドラフト6位で名古屋電気高(現・愛工大名電高)から西武に入団しました。
プロ入り4年目の1985年、初タイトルとなる最優秀防御率を獲得し、先発投手としての地位を勝ち取ります。1987年には15勝4敗で最高勝率、最優秀防御率を獲得。同年、2年連続で日本シリーズMVPにも輝きました。落差のあるカーブを武器に、西武の黄金期の左腕として活躍しました。

1995年にFAで福岡ダイエーホークスに移籍。
投手陣の柱として活躍し、1999年にはチームの日本一に貢献します。

2000年、2度目のFAで読売ジャイアンツへ移籍。
日本シリーズでは、前年まで所属していたダイエーを破り日本一に貢献します。2004年には通算200勝を達成し、プロ入り初ホームランも記録しました。

2007年から横浜ベイスターズに移り、2010年には古巣・埼玉西武ライオンズに復帰します。しかし、同年オフに戦力外通告を受けて、2011年12月に引退を表明しました。

所属した西武、ダイエー、巨人で日本一になった実績から「優勝請負人」と呼ばれました。また、近鉄を含む全13球団から勝ち星を挙げたピッチャーという記録も残しました。
現役時代の通算成績は、224勝142敗3セーブ。

引退後の活動

2012年から3年間、野球評論家、解説者として活動。テレビ朝日「報道ステーション」にも、プロ野球担当キャスターとして出演しました。
2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督を務め、新人監督として史上10人目の日本一に導きました。

ダイエー残留を願うファンに手紙を

ダイエーが日本一に輝いた1999年のオフ、FA宣言をして巨人へ移籍することに。
この時、残留を願うファンが署名活動を行い、17万3000人からの署名が寄せられたのです。

工藤監督は、署名をしてくれた全員へ、感謝の気持ちを込めて手紙を送りました。ファンの気持ちに応えたいと思っていたところ、奥様に「皆さんに手紙を出せたらいいよね」と提案されたそうです。住所と宛名も手書きで、約7年かけて送ったといいます。17万通とは凄い量ですが、家族の協力もあったからこそ出来たのでしょう。ファンを大切にする姿はとても立派ですね。

工藤公康の家族

工藤監督の家族は、妻と子供5人(2男3女)です。

工藤阿須加
長男の工藤阿須加(くどう あすか)さんは、俳優として活動をしています。
1991年8月1日生まれ、身長180センチのイケメンです。
2012年、日本テレビ系「理想の息子」で俳優デビュー。2013年、NHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公の弟役に抜擢され、2014年TBS系「ルーズヴェルト・ゲーム」では、社会人野球選手を演じて注目を浴びました。

工藤遥加
そして、長女の工藤遥加(くどう はるか)さんは、1992年11月18日生まれ、プロゴルファーです。2011年にプロテストを受けて合格。同年12月の新人戦を制して、プロ初タイトルを獲得しました。

それぞれの世界で活躍をして距離は離れていますが、家族で無料通信アプリのLINEでやり取りをすることもあるそうです。家族の存在は大きいのもであり、原動力になっていることでしょうね。

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