清原和博の高校から西武・巨人・オリックスでの野球人生を振り返る!

清原和博
元プロ野球選手・清原和博さんの覚せい剤による逮捕は、日本中に衝撃が走りました。連日報道されていますが、球界のスター選手だったことは、誰もが記憶に残っていることでしょう。今回は、高校時代から西武、巨人、オリックスと渡った野球人生を振り返りたいと思います。

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プロフィール

清原和博
名前   :清原 和博(きよはら かずひろ)
生年月日 :1967年8月18日
出身地  :大阪府岸和田市
身長   :188 cm
血液型  :B型
投球・打席:右投右打
ポジション:一塁手

選手歴

PL学園高等学校
西武ライオンズ (1986 – 1996)
読売ジャイアンツ (1997 – 2005)
オリックス・バファローズ (2006 – 2008)

経歴

清原 桑田
小学生の頃から野球を始め、中学までは投手としても力を発揮し、高校は名門PL学園高校へ進学しました。全国から優れた人材が集まるPL学園野球部において1年生から4番を任され、甲子園に5回出場を果たしました。甲子園では優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回の成績で、エース桑田真澄とKKコンビとして注目されました。

1985年ドラフト会議では、南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、西武ライオンズに入団。熱望していた巨人は、早稲田大学進学を表明していた盟友・桑田を1位指名し、会見では涙を見せました。

ルーキーイヤーの1986年、打率.304、31本塁打、78打点の好成績で新人王に輝きます。入団2年目の日本シリーズでは巨人と対戦。西武が優勝に王手をかけた第6戦9回ツーアウトで、一塁の守備についていた時に涙した姿は、印象深いものでした。

清原和博
多くの名選手を輩出した西武黄金時代をチームの主軸として支えました。そして、1996年オフにFA権を行使し、憧れの巨人へ移籍します。

移籍初年の1997年は32本塁打を放ち、巨人の右打者としては原辰徳さん以来の本塁打30本以上という成績を残しました。しかし、プレッシャーからか本来の力が発揮できず、怪我にも悩まされるようになり、思うような成績を残すことが出来ませんでした。

清原和博
2005年巨人から戦力外通告を受け、オリックス・バファローズに移籍。
2007年は左ひざの手術を行ったため、一軍出場がないまま終わりました。そして2008年8月2日、引退を表明しました。

2000本安打、500本塁打、1500打点を達成しており、通算本塁打は歴代5位、通算打点は歴代6位という輝かしい成績を残しました。その一方、打者の主要タイトルである首位打者、本塁打王、打点王を獲得したことが無いことから「無冠の帝王」とも呼ばれたのです。

西武時代の監督・森祇晶さんは、清原さんについてこう語っています。

無冠の帝王なんて言われたりしたが、西武で一緒に野球をやっていた時、何年間も連続して優勝したチームの4番を務めてくれた。相当な重圧だったはず。これこそ、彼しか持っていない立派な「タイトル」だと僕は思いますね。彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいなかったんじゃないかな。打点や本塁打などタイトルを取れそうな時もあったが、自分の記録よりチーム勝利に貪欲だった。本塁打より犠飛が欲しい場面というものがある。そんなベンチの期待に応えようとする選手だった。

日本プロ野球界のスター選手であり、素晴らしい記録を残してきました。野球を通してファンを熱狂させた方ですから、今回のニュースは残念でなりません。どうか、更生してほしい。そう願っています。

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